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眠りに入る前のこと

「いっちゃん、ねこじゃし、おっじに、どっぞした」
「おーじ、ほっとに、ばっばーい」
「いっちゃん、ねこじゃし、おっじに、どっぞした」
「おーじ、ほっとに、ばっばーい」
「おーじ、ほっとに、ばっばーい」
「せっみ、しんじゃった」
「せみ、とんでった」
「せみ、あっちいった」

zzz

2009-09-22

ジャルジャルが賞レースでやる時のネタは一体誰が決めているんだろう。
一発目のしりとりネタを芸人審査員相手にやるのはどー考えてもあり得ないでしょう。
正月のお茶の間を温めるものとしてはいいんだろうけれど。
昔からのファンは、そういうのと正反対のところに畏れを感じているんだから。
あれで仮に高得点が出たらこっちだって引かざるを得ない。
去年のM1から嫌な流れが続いている。
久方ぶりに夜のテレビをつけたら、こんなことに。

(葬り去られた妄想)「監督・助監督」 -> 「変なストリートミュージシャン」

メモ [構想]

・言語を呼吸器による身体的拘束の視点から捉え直す。
・言語を音楽とのメタファーで見る。(ことにつながる、と思う。)
・アバウトな音節の入れ物があり(これをリズム単位と呼ぼう。)、そこに適当な長さの音節が入る。
・同じ曲の一番と二番で、同じリズム単位の中で音節が伸び縮みするが、発話者/聴取者はそこに同一性を認める。
・すなわちリズム単位は音節よりも(モーラよりも)、よりプリミティブな構造である。
・ハミングから音素/メロディーを除いたものがリズム単位。
・完全に分離はできないが、学習の過程でリズム単位の吸収が優先されるように見える。
・リズム単位のダイナミクスを、呼吸器の「吸気-呼気」ダイナミクスと定義する。
・「呼気」ダイナミクスは、さらに「呼気-静止」ダイナミクスに分かれる。
・「吸気-呼気」ダイナミクスにおける呼気領域を「リズム単位」と呼ぶことにする。
・「呼気-静止」ダイナミクスにおける呼気領域を「音節」と呼ぶことにする。
・再び仮説。
・幼児は、「リズム単位」をまず学習する。
・(リズム発話の効果)
・その後、様々な「音節」を「リズム単位」の中に当てはめる。
・その過程で、音節を構成する音素の発音はより明瞭になる。
・その過程で、品詞のカテゴライズ能力も促進される。
・(リズム単位認識の効果)
・tutorは同じリズムで何度も幼児に語りかける。
リズムが音素学習のための一種のコンテキストとして機能する。

・反仮説の吟味。
・音素の認識/発音学習がまず先にあるとすると、、
新規の言葉に対する包摂力が無くなる
模倣のための容器/土台が無く、速やかに対応できなくなる








関連論文 [構想]

Nazzi, T., and Ramus, F. :Perception and acquisition of linguistic rhythm by infants. Speech Communication, 41, 233-243, 2003
(韻律によるブートストラップ仮説)

C. Schafer, et al. : Heartbeat synchronized with ventilation, Nature, 392, 239-240, 1998
(心拍と呼吸の同期現象)

引用 [構想]

「(中略)乳幼児の言語獲得の初期に、言語の韻律、特にリズム特性が獲得を牽引する役割を果たすという「韻律によるブートストラップ仮説」(Prosodic Bootstrap Hypothesis)が提唱されている。例えば、Nazzi and Ramus(2003)によれば、乳児は生得的に言語のリズムを弁別する能力を備えており、生後早い段階で自分が学んでいる言語のリズムが何であるかを確認できる。その結果、そのリズムに最適化した単語の切り出し方略を用いることができ、それがその後の言語獲得をスムーズに進行させるというのである。」 (馬塚れい子, 「言語獲得の基盤をなすリズム認知」, 大修館書店, 言語, p62, 2009.6)

「(中略)音の時間的なつながりである「音脈(auditory stream)」が知覚される際に、一種の文法が関与するとの仮説を立てている。この「聴覚の文法(auditory grammar)」を適用する際の音脈の構成要素は「音の始まり」「音の終わり」「継続部」「空白」の四種類である。たとえば、「空白」->「音の始まり」というつながりは文法的であり、「空白」->「継続部」というつながりは非文法的である。ここから推測されることの一つは、母音のような音を、どこで音が始まったか判らないように少しずつ強くしてゆこうとしても、「空白」->「継続部」という非文法的なつながりに対応する、音がいつの間にか鳴っていたというような知覚内容は成立しない。「空白」->「音の始まり」->「継続部」というつながりが知覚的に形成され、「音の始まり」が必ずどこかの時点にあるように知覚されることになる。ここから、二つの母音を、それぞれ始まりをもつ別々の事象として聴取者に聴いてもらうには、あいだに空白時間を挟めばよいことが判る。」 (中島祥好, 「聴覚におけるリズム知覚」, 大修館書店, 言語, p73, 2009.6)



参考サイト(研究室) [構想]

A: 神保・小谷研究室
http://neuron.k.u-tokyo.ac.jp/?FrontPage
(心拍/呼吸の同期現象)

B: 理研言語発達研究チーム
http://www.brain.riken.jp/labs/langdev/index.html
(言語発達期におけるリズム知覚の役割)

C: 聴覚心理学研究室
http://www.kyushu-id.ac.jp/~ynhome/JPN/index.html
(主観的リズム化、音脈等)

D: 理研生物言語研究チーム
http://okanoyalab.brain.riken.jp/pub/jp/
(性淘汰による進化理論、言語インタフェースとしてのリズム)

2009-09-20 [ノーマル]

横浜で学会出席後、東京で友達と会う。
すずきとイメフォでcleanを見る。
主演のマギーチャンはこれで大分評価されたようだが、それはそれとして、
義理のお父さん役の人(ニックノルティー)の存在感がたまらなかった。
監督の、定型的な落としどころを巧妙にスキップしていく練られた構成に、
多少意図的なところを感じつつも、
意図的にでもしない限りこの成熟した淡白さは醸成されないだろうなとも。
いい映画でした。

久方ぶりに、同窓の輩と酒を酌み交わし、
プロフェッショナルの宮崎駿特集におけるモギケンの失礼なインタビューと
極めて不遜なナレーションに対して、
あれでは宮崎駿に訴えられても文句は言えぬ、
というところで、
かないろんぐと強く同意する一幕など。

実はこの遠征中、
頭の中では新しい研究の構想が目まぐるしい展開で渦巻いていており、
横浜の百貨店の何階かに親切にも提供された円形テーブルを陣取り、
構想ノートを数ページすすめることができた。
帰りにニシオカから借りた『言語』のリズム特集からは、
全くもって現在の関心事ど真ん中の論文をいくつか拾うことができ、
これはますますやるしかないだろうと思っているのだけれど

そのためには転職しなくてはいけない。

日本語でとことん笑いをやればいいじゃない。

衣が寝てから、
しんぼるを見た。
レイトショーで。

私が松本映画で無意識的に期待しているのは、
初期のvisualbum(しか知らない)を見たときに衝撃を受けた、
「強烈な違和感が静かにそこにある」
張りつめたカフカ的な空気感なのだと思う。

大日本人では、
映画仕様の強烈な違和感が存在しながらも、
それに対するexcuseがうるさくて、
特に、顔の見えないインタビューアーがその役割を果たしていて、
あの存在本当にいらなかった。

それで、しんぼるは、
メキシコパートの映像はかなり好きだったし、
最後の方で、何か一つ抜けたな、と思えるところもあったし、
静かな映画館で実はこっそり何回か吹いてしまっていたし、

が、

そうした事実を脇に置いて、
現に感じている総体的な印象を問い合わせてみたところ、
そんなにハッピーな感じではない、というのが、
本当のところのようです。


松本パートの前半部分が、
ユニバーサルな笑いを意識しすぎていて、
あんなベタなことようやるわってのもあったし、
世界を意識してるとか言ってたけど、

そうやって自分の育ったとこの言語を捨てていく過程で、
松ちゃん固有の空気がごっそり抜け落ちちゃっているというか、
あんな、定型的なズッコケを挟まれても、
世界だって気を使って失笑するしかないでしょうよ。
(いくつかは笑いましたよ。心から。)

日本語でとことん勝負すれば、
いずれつながるところとはつながるのだと思うのだけれど。

とにかく、前半の松本パートを除けば,
何か今後の松本映画への期待を感じさせるような素材がちらほら見えたし、
次回作もまた多分見に行くんだろうな。

2009-09-13

これまで衣には、
私のことを「とっと」と呼ばせるようにしていたんだけど、
今日突然、
どこで覚えてきたんだか、
すごーくいい発音で、
「おとーさん」って何回も呼んできて、

何か、とても似つかわしくない感じがして、
普通に照れてしまったもので、
やめるように言ったんだけれど、
どうも完全に定着しそうな雰囲気。

父親って感じは、まだちょっと、早い。

メモ

感覚の不定性がコミュニケーションのエサとなることをもう少し真剣に考えたい。

ロボットに、全方向をトレースするセンサをつけて、不確実性を減じる、という、
機能的なロジックばかりを追うのではなく。

後ろから、こっそりやってきて、わっと驚かすという、
あの行為の意味を考え直すことから。

今週発見した衣の画期的な寝かせ方

消灯し、
ひたすら夫婦で「大人の世間話」をやる。

今週発見した
昨今ますますそのハッチャケぶりを発揮し始めた衣を
極めて少ない労力でいつの間にか寝かせる方法

(音楽揺らしを使わずに)

2009-08-24

芸能人なんて職業はろくなもんじゃないから私は特に誰にも薦めないけれど
(親しき人に幸い芸能界を目指すものはいない)
それは芸能界がくだらないということではなくて、
芸能人のゴシップで食ってるろくでもない(一部の)マスコミのせいで
芸能人は常に「過度に演じる」ことから逃れられない、
ということを言いたいのだけれど

何だか最近覚せい剤の話で、
関係者の証言によって明らかになった」という枕とセットで、
(罪状とあまり関係のない)取り調べの内容とかが連日取り上げられているけれど、

関係者って一体誰なんだよ。
てか、
取り調べの内容の一部がリークされたりされなかったりというのは、
それによって世論を操作できる、
ということなんだから、
マスコミはその情報の可否はもちろんだけど、
その情報を流すことに対する何かしらの使命感みたいなものがあってしかるべきだと思うんだけど、

芸能人のゴシップに対しては
そうしたことに対する感度が著しく低下するらしい。

というか、
そうしたことに対する感度が特権的に低く設定されることを許容される職業として
「芸能人」という職種が存在しているらしい。

『ニッポンの思想』

「「八十年代の思想」は「現状」に対して「批判的(否定的)」でした。「九十年代の思想」は「現状」に対して「関与的(留保付きで肯定的)」だったと思います。そして「ゼロ年代の思想」は「現状」に対して「受容的(肯定的)」です。「ゼロ年代の思想」は、「世界」を「変革(更改)」しようとするのでも、「世界」を「記述(説明)」しようとするのでもなく、この「世界」を「甘受」する、こう言ってよければ「受け入れる」だけです。それは「世界」も「社会」も変えもしなければ分かろうともせず、ただ「こうだからこうなのだ」とトートロジカル(同語反復的)に頷くことから始めます。しかし、ではいったい何を始めるというのでしょうか?」(p.328-329)

『不可能性の時代』

「ここから次のような仮説を立ててみよう。鉄道マニアは、鉄道に、鉄道のネットワークに、広域的な社会空間の、普遍的な世界の全体を、言ってみれば、写像しているのではないか、と。鉄道それ自体は、むろん、世界の中の部分的な要素にしか過ぎない。が、その部分的な要素を楽しむことにおいて、普遍的な世界の全体を享受することができるのだ。」p.92-93

「ムーゼルマンの前では、上品であること自体がおぞましいのは、誰だって、ムーゼルマンと同じような状況に置かれてしまえば、決して威厳など保てるはずがないからである。言い換えれば、われわれが多少なりとも倫理的に振る舞えたり、上品であったりするのは、われわれが、たまたま、ムーゼルマンの境位にはないからだ。ここからわれわれが導き出すことができる教訓は、倫理が総体として、まったくの偶有性に支えられているということである。」p.243

「われわれは、不定の<他者>によって見られている(かもしれない)という原初的な感覚をもっている。「監視」という形式で、<他者>を具体化・物質化したときに失われるのは、<他者>のこのような本来的な不定性である。余すことなく張り巡らされた監視のネットワークがわれわれから奪うのは、監視カメラの物質的な現前には解消されない、<他者>の余剰性なのだ。監視社会が浸食し、奪い取っているのは、<他者>から離れた孤立した時空間ではなく、逆に、<他者>とのある種の関係性の方である。」p.251

2009-08-19

本当は,中国についてあれこれ書くつもりだったのだけれど
帰国後、数回の熱弁を経た現在では、
伝えるモチベーションはついぞ失われている。

理由あってmixiを始めたのだけれど、
そういえばmixiをやったこともないのに
かつて修士論文で
mixi的な、
記述に還元されるプロフィールのやりとりについて
あーだこーだ書いていたんだけれど

それはそれとして、
足あと残す勇気さえあれば
人間観察好きとしては
mixiがかなりハマるものであることはよくわかった。
しかし今のところ、
足あとを残す勇気はそんなにないのだけれど。

それとマイミクって言葉の響きがちょっときつい。
マ行の影の部分が活躍してしまっている。
マ行の影の部分といっても
悪魔のイメージのことではなく
毛布とかミッキーとかの
角がとれて緊張感がない感じ。
何言ってんの。

マ行だっていいマ行の言葉はたくさんあるんだからね。

それで色々調べていたら、
skypeで英会話という
私にとって理想的な学習法を発見した。
http://www.cafetalk.jp/index.php

できない!!(ゆらゆら帝国風に)

自分の場合、どこかで成長神話が作用していて、それが何かしらの動力になっていることは否めない。
それで、
4年前と同じ状況に置かれて大して何も成長できていなかったと実感するとき、
くやしい。

finalistをいくつか抱えていると、
本番に弱い人のように思われそうでいやだ。

博士になったときに英語ができてないのは
ちょっと恥ずかしいでしょう。

英会話スクールには行きたくない。

中国では人より車が優先される。
中国のGPSはずれている。

中国、、

アノときソノとき感じたことを、
書き溜めておかないと、
色んなことが何事も無かったようにふぅ~と消えてしまうとして、
それで何か問題でも?
「認識論的な事実」に対して身体性の骨抜きされた「論理」をあてがうという、
典型的な「思考の枠組み」。
それ自体も「認識論的な事実」であるからして、
こうした問いの再帰的な構造を持つこと自体を一つの人間にとっての「自然」として、
それはそれとして受け入れるという。

いや、別にこんなことを書きたかったわけじゃないんだ。

とにかく重要なことは、
近年の傾向として、
妻からもよく指摘されることとして、
「「何か深刻な話をする」という状況設定」それ自体に対する懐疑がとことん高まっているせいで、
特に何も議論したくないというか、
社会に対してあーだこーだ言いたくないというか、
だから家庭の方向性みたいなものに対しても特に関心がないらしく、
まぁ、そんなとこなんで、
ブログを書くのだってとても億劫だから、
海外来た時とかの、
嫌でも文化的な他者と遭遇せざるを得ない状況において、
やっとコミュニケーションの回路が少し開かれるみたいな、
まぁ、そんなこんなで、
本当のところ、最初に言いたかったのは、
今後、だんだん箇条書き的な書き方へとシフトしていくのかなぁ。


それで、実は明日は大事な発表があるのです。
それで、発表前にブログを書くケースって意外と自分の場合多いと思われるからして、
その理由のある部分はわかってるけれど、
そういうことをここに今くどくど書くのはとても億劫だ!!

[もっぱらyoutubeでジャルジャルを確認する。]
[中国ではyoutubeはつながらない。]
[コメント欄に]
[後藤さんかっこいい]
[みたいな投稿がたくさんあって]
[ああいうのって心底]
[うんざりする]
[あの番組の客にもうんざりする]
[かつてエンタを一瞬でも見てしまった時に走ったおぞましの戦慄にはわずかに及ばないものの]
[似たようなもんでしょうよ]
[おそらくある程度有名になってきたのだろうから]
[好きで一緒になったわけでもないであろう]
[彼らを見限って]
[新しい番組を始めるなりして]
[例えば]
[千鳥とか笑い飯の東京進出をアシストしてほしい]
[中国、、]

シンガポール航空の飛行機の中では誰もが毛布に身を包めそれを震わせる。そしてアイホンをUSB経由で充電することができる (even in an economic seat)

シンガポールが
アイホンの衝撃の実用デビューを飾る舞台となった国として
長く私の心に残り続けるであろうことは
もはや疑うべくも無い事実であることを差し引いても
仮に差し引かなくても
いや、
差し引かれないことに対するきまりの悪さを
見て
見ぬ
振り
をするという
アクロバットな跳躍を試みようが試みまいが、
結果(in the end)、結果(the result)は同じなのだからね。

私は
実のところ
ここのところ
研究所では屋内の位置情報を扱う分野にいながらして
だがしかし
全く実用的(アプリケーション)イメージがわかずに、
仕様がないから、
社会的ストーリーからは幾分距離を置きながら、
地味に移動ロボットの情報学的研究をすすめていたのではあるが、

キャッシュで保存したシンガポールの地図の上に、
自分の位置と方向がリアルタイムでマーキングされていく様を初めて体感した時の感じは、

#もちろんそれは最もベイシックな使い方で
#応用次第で色々な使い方へと広がり得る。

その感じ自体がユニークであること自体は特に語るところでもないにしても、
それを一段普遍化したレベルの感覚をとってみても、
(新しくて便利な技術文明に接触した際の反応的な)
さしあたり、
経験した過去の感覚のどれにもカテゴライズされていない。

幼少の頃は何かもが新しいがゆえに
その新しさについて差異化する契機が生じにくい、という事情。
インターネット世界的なダイナミクスとしての「新しさ」の衝撃は、
必ずしも「直接的」ではない、という事情。
首にぶら下げて歩くという「携帯形態」が
カーナビとは異なる一種の身体的全能性を与えているという事情。

カーナビ的なものは
脳の一種の外化で人間をどんどんバカにしていくというような趣旨のことを
私はこれまで好んで仕事でも口にしていたのだが、
どうやら事情がそんなに単純でないということもわかってきた。
フッサールの現象論的的記述を引用して一部のロボット研究者が対象としている、
道具と認識主体が力学的にリンクしていくような世界観は、
(道具が一時的に身体化するということです)
実は私が今回経験したような事象にも適用できるのではないかという、
例えばそういうことで、
つまりは、
そうしたデバイスに対する脳の振る舞い方は、
「必要な時に必要な情報をデータベースより参照する」という、
静的で刹那的なプアな知能モデルでは片付けられない、
もっと能動的で微妙で豊かな問題が含意されているかもしれない、
そして、
それだから、
そろそろ30になる私は、
もう少し頭を柔らかくしないといけないと考えます。

近況2(私の嫌いな人が私の好きな音楽を奏でているという事実を巡って)

[X3] DCPRGのライブとかPVとかを最近youtubeで見つけた。
[X4] 実に強い感銘のような、そのようなものを享受している。
[X5] 2001年に1stを買っているのだが、もう少し我慢して見守ればよかったと思っている。
[X6] 解散していた。
[X7] しかし
[X8] そのフロントマンの想像界における理想像なるもの、要は、
[X9-] (意識的にせよ無意識的にせよ)
[X9] 彼がオフィシャルに形成しようとしているビジュアルイメージといったものは、
[X9.3] これが私と全く噛み合う気配もない。
[X9.3.3] 全く。
[X9.3.4] 生理的に。
[X9.4] 私の好きな音楽は、それを奏でる人々の、
[X9.4.3-](やはり私にとって見所のある)
[X9.4.3] テクスチャと分ち難くリンクしており、
[X9.4.3+] (リンクするように自我を発達させてきた)
[X9.5] それが故に私は「人を見る目」についてはかなりの自信を有してきた。
[X9.6] だが、しかし、この事態は一体どうしたことだろう。
[X9.7] この歳にして自我の再構築を始めなければならないとしたら
[X9.8] やはりそれは何としても始まれない。

近況

[P] 研究者としての英語の資質に著しい問題が認められることは、はじめから気付いていた。
[Q] 衣が寝た後と早朝にVOA SPECIAL ENGLISH NEWSをひたすら聴く。
[R] 柔軟を二年ぶりに再開する。
[S] またを開くには妻の協力が必要であり、機嫌を伺うことに対して躊躇する理由は今のところ見当たらない。
[T] アイホンを購入する。
[U] そうした事実は不可避的にソフトバンクのメンバーであることを要請する。
[V]
[W] アイホンのインタフェースにはかなりの程度、感銘のような、そのようなものを享受している。
[X] 私はこれまで携帯の文化に馴染めなかった。
[Y] 失われた数年。
[Z]

ひどい話

先月、レイズの岩村がセカンド塁上でダブルプレーを中継する際に、
膝に足を入れられて今季を棒に振るという事態に至った(これを涙なくして語られようか)その映像を見て(見る前から怒りがふつふつと)、
やはり私はこうしたプレーを受容している文化なり精神なりを理解することはできないし、
一刻も早くこんな卑劣なプレーはスポーツから消えてしまえばよいと思っている。
私はもちろんクロスプレーが卑劣だとかそんな女々しいことを言っているのではなく、
クロスプレーは正にお互いがそれなりに平等にクロスできる状態においてこそされるべきだという、
それなりの不確実性が存在して「ゲーム」として成立する状態においてこそされるべきだという、
だから、仕掛ける側は「空気を読んでやれよ」という、
相手が防御態勢に入れない状況で攻撃したら相当『しら〜』って空気になるよという、
至極健全な感受性に由来する主張を述べているだけなのだけれど、
こうした一見曖昧な主張では、
残念ながらハッスル的マッスルポピュリズムやフォアザチーム的ナショナリズムの大波を打ち返すことはできないことは経験的にわかっている。

引退した元木という選手が、一塁ランナーのときに守備に体ごとぶつかりにいってダブルプレーをよく阻止していたものだから、「くせ者」とマスコミに持ち上げられていたことを思い出した。あんな寝込みを襲うような行為とても褒められたもんじゃない。捕球や送球動作の一連の動作の中で防御態勢が全くとれないようなある種のデッドポイントというのは必ず存在する。それは例えば、高いフライを追って捕球するときに、そのボール以外に意識を向けることができないのと一緒なんだけど、そんな相手に(そんな相手にだぞ!!!)体ごとぶつかっていけば、そら結果は目に見えてるでしょう。やったもん勝ち。ひどい話だ。

ひどい話だ。

2009-05-12

i'm in a hotel in kobe.

一眠りして外に出ようと思ったら部屋の鍵がない。
そういえば眠りに入る私の曖昧な意識の輪郭部分に柔らかく干渉してくるような
ごそごそとした感触のノイズがドアの辺りで一時発生していたような記憶がある。
フロントに電話をするとやはり鍵が届いていた。
外の錠口に差し込まれたままであったらしい。

こうした信じられいミスも、
ここ一年で二度目となると、
私固有の認知的機構に根ざした
現象論的/力学的なプロセスについて思いを馳せずにはおれない。

ホテルでテレビを見る。(夜にテレビを見るのは久しぶり)
モギケンが脳がどうのと「クローズアップ現代」でしゃべっていた。

[リラックスするのがよい]とか[体を動かすことよい]とか、
ほとんど目新しさの感じられない事実を、
徐々に脳科学的なEVIDENCEがたまりはじめているという言い訳のうえで
(しかし何のデータも提示されないまま)、
前頭葉とか感情とかいうテクニカルタームを織り交ぜつつ紹介していた。

なんだか、私が本屋でバイトしていたときに心底嫌いだった、
心の弱っている人に取り入ってベストセラーを連発する自己啓発家みたいな空気を感じる。

氏は、そうしたことを伝えることに何かしら使命感を感じているのだろうか。そうしたレイヤに対する脳科学の貢献度が1%にも満たないことを自覚しているのならば、なぜ、わざわざゴールデンタイムの時間に出てきて、視聴者の思考能力をますます粗くする恐れのあるような言説をばらまく必要があるのだろう。統計の外に弾き出されてしまう一回性の重みを繰り返し力説していた人のイメージからはあまりのギャップだし、昔からblogを読んでいた私としてはがっかりだよね。

眠い。
明日スライドを作ろう。

最近の再生リスト@yt

久しぶりに大学生の頃の気分で。












(これすごく好きだった。)


(やっぱりいいね。最近何してるんだろう。)


(かっこいい)

「こういう友達を持ったのなら不幸だね」あるいは「fictionalなcommitmentを要求する『ねじれ』た人間社会の生態に対する感受性の希薄さについて思うこと」くわえて「そんな無難な事言うのにいちいち泣いてんじゃねーつーの」

たったさっき、yahooで拾ったニュース。

みなさんこんばんは。SMAPの香取慎吾です。 SMAPのメンバーである草ナギ剛が、草ナギ剛がみなさんに多大なるご迷惑をおかけしたことを、深くお詫び申し上げます。 草ナギ剛が、今回してしまったことは、社会人として、社会人として、大人として、絶対に許されることではありません。 草ナギ剛は、ぼくにとって、SMAPのメンバーでもあり、一番の親友でもあります。 (10秒あまり絶句) 少しだけですが、昨日の夜、電話で話すことができました。深く、深く、彼は反省していました。その言葉を、ぼくは信じたいと思います。本当に今は…本当に…みなさんに…本当に…みなさんが許していただけるのならば、SMAPに…SMAPに…SMAPに一日でも早く、つよぽんが戻ってくることを…戻ってくることを願っています。 本当に申し訳ございませんでした。

いやいやいやいやいやいやいやいやいやいや、

こういうのは本当に堪え難い。
以前、極楽の相方の涙の謝罪をyoutubeで見たことあるけれど、
あれも似たような感じで最悪の気持ちになった。

そんな無難な事言うのにいちいち泣いてんじゃねーつーの。

親友の尊厳をワイドショー的な数の論理でもって乱暴に踏み躙るマスコミの主張に全面的に肩入れしているんだから、ちょっと親友の発言としては理解できない。
結果的に(親友をダシに)自分が守られているということに気付いているのだろうか。

親友であれば、
自分がマスコミや社会の側に叩かれる事を覚悟してでも、
親友に流れていた時間を理解するような言葉なり態度なりが多少なりともないと。

「絶対に許されない事」の網羅されたカタログを閲覧するかのような
時間性に対する感受性を著しく欠いたある種の類型的な姿勢を
私はどうも肯定的にとらえることができない。
--
ところで
深夜に人気のない公園で裸になったってんなら、
泥酔している割には
それなりに配慮の行き届いた行動だと思いますね。

「納豆」と「おなら」と「くさい」を巡って

私の昨今の放屁の異臭が生み出す
完結された全体性とでもいうべき
それの沈殿した空間に頭を垂れよ

それは恍惚にも似た
既に貫禄さえも漂う
異臭というよりかは
匂いという名の空間

というような偉そうなことをぬかしている状況でもなく
私の部屋に入るなり妻からの悲鳴と非難の声が私を襲い

「同じ部屋で何も知らずににこにこしている娘がかわいそう」的発言を受けて
娘を愛する良識な大人である私としてはそれは多少反省的にならざるを得まい


それはデジャブだった。
そういえば。
この議論前にもしたような。(それをデジャブという)

異臭騒ぎは二週間くらい前からだろうか。
一昨日、あまりに臭かったので、
私の脳は無意識的に過去の資源を活用して解決への道を探っていたのだろう。
「一ヶ月くらい前から私が毎朝納豆を食べていることとの相関について」の議題が、
私の意識に提出され、
その提出されたときの感覚がデジャブだったもんで、
自分の過去の日記を検索をしてみたらやっぱり出てきた。


NO.208 納豆 おなら くさい でgoogle検索。 有益な情報得られず。 家の親から大量の納豆が配送されてきて以来毎日粛々と納豆を食う毎日。 そして、今、おならが相当臭い。 豆類を食べるとおならが臭くなる、という研究室情報。 いやしかし昔はよく納豆食ってたよ。 何だかイメージ的には、 大腸の中のかちかちに固まった不活性なゴミみたいなもんを 納豆どもが分解してくれて、 その過程で出るガスの腐敗臭が相当臭いのでは、 みたいな感じか。そんならどんどん出していこう。 おならを出す瞬間の、 けつの穴とガスの摩擦から生まれる半濁音破裂音がたまらない。 生まれつき大腸の機能が弱い自分は、 その弱さ故に、消化系の出力側に敏感で、 そこに根源的な快楽と言おうか何と言おうか、 いやいや、別にホモだと言っているわけでないが、 ただ、気体にしても個体にしても、何かを吐き出す時、 そこには確かに生きているという実感がある。 どんどん出していこう。 DATE:2004/7/13(Tue)23:58:36 NAME:kenri

NO.286 茂木さんが クオリア原理主義宣言なるものをかまされた。 日記を毎日読んでいるから、 大体内容はわかっていた。 It cannot be verbalized It cannot be symbolized It cannot be marketed easily. なるほど。 オレも意味なくどか~んと何かを宣言してみたいなぁ。 あまのじゃく原理主義宣言。 私が賞賛される時、私は頑張らない。 私が賞賛されない時、私は頑張る。 この時、精神的エントロピーは肥大化することなく、 純度の高いイメージが生産され続ける。 あまのじゃくを肯定せよ。 今日は再びおならがくさい。 おなら原理主義 私が久方ぶりに納豆を食べると、異臭が漂い始める。 私が久方ぶりにカップラーメンの辛を食べると、異臭が漂い始める。 私がカボチャ系のケーキを食べると、強烈な異臭が漂い始める。 納豆を毎日食べなさい。 辛も欠かさず購入しなさい。 カボチャ系を避けて通れぬというならば、 おならを肯定しなさい。 摩擦によって熱エントロピーは外部に拡散し、 純度の高いイメージが瞬間的に生産される。 その瞬間を逃してはならない。 こんなくだらない文字の羅列では、 そのうちクオリア原理主義からのテロ攻撃を受けてしまうだろう。 『でも波のある性格は、直してもらいにいこう』 こういったズラした啓蒙に、mooolsの非凡なセンスを感じます。 DATE:2004/10/12(Tue)1:53:33 NAME:kenri

5年前から私はひどい日記をつけていることが分かります。
http://web.me.com/kenri.ko/kweb/diary/hibi2004.html

以下のリンクを参考に私の異臭の原因について要考

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa843260.html
http://tulipsflower.cocolog-nifty.com/diary/2008/10/post-8107.html
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1210532532?fr=rcmd_chie_detail

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