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『不可能性の時代』

「ここから次のような仮説を立ててみよう。鉄道マニアは、鉄道に、鉄道のネットワークに、広域的な社会空間の、普遍的な世界の全体を、言ってみれば、写像しているのではないか、と。鉄道それ自体は、むろん、世界の中の部分的な要素にしか過ぎない。が、その部分的な要素を楽しむことにおいて、普遍的な世界の全体を享受することができるのだ。」p.92-93

「ムーゼルマンの前では、上品であること自体がおぞましいのは、誰だって、ムーゼルマンと同じような状況に置かれてしまえば、決して威厳など保てるはずがないからである。言い換えれば、われわれが多少なりとも倫理的に振る舞えたり、上品であったりするのは、われわれが、たまたま、ムーゼルマンの境位にはないからだ。ここからわれわれが導き出すことができる教訓は、倫理が総体として、まったくの偶有性に支えられているということである。」p.243

「われわれは、不定の<他者>によって見られている(かもしれない)という原初的な感覚をもっている。「監視」という形式で、<他者>を具体化・物質化したときに失われるのは、<他者>のこのような本来的な不定性である。余すことなく張り巡らされた監視のネットワークがわれわれから奪うのは、監視カメラの物質的な現前には解消されない、<他者>の余剰性なのだ。監視社会が浸食し、奪い取っているのは、<他者>から離れた孤立した時空間ではなく、逆に、<他者>とのある種の関係性の方である。」p.251
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2009-08-19『ニッポンの思想』 ブログトップ

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