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控えめに言って、

そう、
控えめに言って、
最近強く思うことなのだけれど、
いや、
むしろ声を大にして言いたい!!
最近感じているのかいないのかよくわからないなりに思うところがあり、


要は、
「とてもいいところに引っ越してきてきてきてしまったのでは」
というポジティブな実感をここに宣言致します。

京都の、
季節感の分ち難く結びついていた鴨川通学時の身体の記憶のその質感は、
(今思えば、最後の三年間を御所の前で過ごしたのは正解だった)
何者にも代え難いが故に、
さらなる代え難さに向かって跳躍を試みるような、
そんな按配で、
私の胸の中で時折思い出したように小躍りを始めては、
将来京都に住みたいね、とまこと話したりするのだよ。

各務原もなかなかだよ。
今日は自転車で通勤したのだけれど、
せっかくだから新境川沿いを走ってみた、
朝八時半頃、
行きの走行区間の四分の一程が満開な桜の下、
だもんで、
同じ道を戻るんだから、
帰りだって走行区間の四分の一程が満開な桜の下、
それは夜八時前、
でもって、
向こう岸沿いの道路を通る車の控えめなライトが川を点々と照らすものだから、
大袈裟でなく、
決して大袈裟でなく!!!
川が昔の賑やかさを思い出してしめやかに、
かつての光景に擬態しているような、
そんなしんみりとしたいい気持ちになっていたら、
夜は桜のことをほとんど忘れていた。

夜は桜があまり見えない。

そして私は最近、
論文執筆に加えて、
研究所のやっかいなプロジェクトにも関わっているものだから、
朝九時から夜八時くらいまで働いているのだ!!

1月から今まで、
論文を5つも書いている、
という事実に先頃気付いた。
しかもどれも結構な重量クラス。
今月末までにもう一つの予定。
今日でようやく峠を越えそうな感じだから、
お酒でも飲みたいところだけれど、
今日はなんといっても月曜日で、
来週ゆーこ来るとかいう話もあるから週末までたっぷり働こう。

滑降する衣


衣は踊るとき右肩が右下へと引っ張られる傾向にある。


たまに暇になったらこんな文章でも書いてみたい。(頭がおかしいと思われるその前に)

特に語る事の一つや二つもありやしない煮詰まったその時にこそ
何事かを書き起こして成り行きに任せてしまおうという発想そのものにご賛同頂ける事を前提として
とりあえず進みだしてみたところまではよかったものの
果たして言葉の並べ方あるいは時間軸という次元にのみ執着したような文の展開を背景に
書き手と読み手の間に愉悦的な関係を築くことは可能だろうか
それは例えば、より浅いレベルでは、

「行商の絡み合う奇妙な点線による周期的な着地点を今すぐ奪還せよ」
とか
「のそのそがじるまーるに変質したその前から僕は気づいていたけれどね」
とか
「蛻の空の定義矛盾を暴く道筋を示す方法と教員免許の間には何のつながりも見出せない」
とか

結果的に浅いが故に深くならざるをえないこの現状を打破するために
何事かを書き起こして成り行きに任せてしまおうという発想そのものにご賛同頂ける事を前提として
とりあえず進みだしてみたところまではよかったものの
果たして言葉の並べ方あるいは時間軸という次元にのみ執着したような文の展開を背景に
書き手と読み手の間に愉悦的な関係を築くことは可能だろうか
それは例えば、より浅いレベルでは、

「行商の絡み合う奇妙な曲線による離散的な着氷点を今すぐ奪還せよ」
とか
「もそもそがもそもそから何者にも変質しないそれ故に僕が気付くべきものなど何もない」
とか
「蛻の空の定義矛盾を暴く道筋を示す方法と教員免許の間のつながりに関する一考察」
とか

結果的に浅いが故に深くならざるをえないこの現状を打破するために
何事かを書き起こして成り行きに任せてしまおうという発想そのものにご賛同頂ける事を前提として
とりあえず進みだしてみたところまではよかったものの
果たして言葉の並べ方あるいは時間軸という次元にのみ執着したような文の展開を背景に
書き手と読み手の間に愉悦的な関係を築くことは可能だろうか
それは例えば、より浅いレベルでは、

「行商はそもそも絡み合わことがないテーゼにこそ含意される周期的な着氷点」
とか
「もしもしがもしもしっぺ返しへと変質するその過程にこそ着目するべきではないか」
とか
「蛻の空の定義矛盾を暴く道筋を示す方法と教員免許の間のつながりに群がる大衆」
とか

結果的に浅いが故に深くならざるをえないこの現状を打破するために
何事かを書き起こして成り行きに任せてしまおうという発想そのものにご賛同頂ける事を前提として
とりあえず進みだしてみたところまではよかったものの
果たして言葉の並べ方あるいは時間軸という次元にのみ執着したような文の展開を背景に
書き手と読み手の間に愉悦的な関係を築くことは可能だろうか
それは例えば、より浅いレベルでは、

「暁鐘がもそもそと絡み合う卑猥な場面で突如発動する周期的に着氷するあの質感」
とか
「もそもそ変質その過程に着目」
とか
「蛻の空の定義矛盾を暴く道筋を示す方法と教員免許の間のつながりを簡単には断ち切ることはできない」
とか

結果的に浅いが故に深くならざるをえないこの現状を打破するために
何事かを書き起こして成り行きに任せてしまおうという発想そのものにご賛同頂ける事を前提として
とりあえず進みだしてみたところまではよかったものの
果たして言葉の並べ方あるいは時間軸という次元にのみ執着したような文の展開を背景に
書き手と読み手の間に愉悦的な関係を築くことは可能だろうか
それは例えば、より浅いレベルでは、

「もそもそと絡み合う卑猥な質感」
とか
「もそもそ変質に着目」
とか
「蛻の空の定義矛盾を暴く道筋を示すもそもそと教員免許の間のつながりから脱却する速度」
とか

結果的に浅いが故に深くならざるをえないこの現状を打破するために
何事かを書き起こして成り行きに任せてしまおうという発想そのものにご賛同頂ける事を前提として
とりあえず進みだしてみたところまではよかったものの
果たして言葉の並べ方あるいは時間軸という次元にのみ執着したような文の展開を背景に
書き手と読み手の間に愉悦的な関係を築くことは可能だろうか
それは例えば、より浅いレベルでは、

「もそもそ卑猥」
とか
「もそもそ変質」
とか
「教員免許」
とか

結果的に浅いが故に深くならざるをえないこの現状を打破するために

2009-03-04

(論文投稿のための)
2月上旬からのスイッチの入り方は我ながら見事で、
それが昨日(寝ずの)感動のゴールを迎えたものだから、
そのテンションのまま向かった岡崎で
(飛び飛びの)爆睡を重ねたのも無理はなく、
そして、(たったさっき)家に戻ってきてネットをチェックしてみると、
どうやら締め切りは一週間延びているらしい。
そうかね。

3.06のimacと2.8のmacbookproを買ったことにより、
(もちろん自分の金じゃないし私用でもない)
シミュレーション意欲が沸々と湧き、
そうするとどうしてもメモリを消費するような形でプログラムを組んでいってしまい、
結果限界まで突っ走って、節約のターンに入る。
PCの速度は飽和せず、
そして人間の欲望(というか、処理レンジの設定リミットみたいなもの)も飽和しない、
だから、この蜜月の関係は当分続く。

そのシミュレーションの結果がどうにもイメージしていたものと違うものだから、
(これは前にも書いたけれどね)
いちいち全ての処理ポイントをデバッグでモニタしていて、
それでもわからないものだから、
仮説の動きをvisualizeしてみて、
初めてその非対称性の根拠が自然の側に存在しているような感触が得られて、
それが、一般に言われているsimulationの悦というもの。

想定される結果をデザインしようと環境を組むのだけれど、
出力を完全にコントロールできるわけではなく、
しばしば、設計と出力の不和な部分に、
環境の性質の本質的な部分が炙り出されてくる。

それでeurekaとかと叫んでしまったのだ。

#目の見えない人が杖を突いて点字ブロックの上を歩いているときに
#進行方向側に杖を突くのと逆側で杖を突くので
#どちらが点字ブロックを外れやすいかという問題

spyseeというページを知っているだろうか。
私の名前は、
それによると、
私とのつながりは、
学者・研究者が50%強、
芸術家・作家が20%弱、
ロボット工学が10%強
ミュージシャンが10%弱
ニューラルネットワークが5%くらいの成分で出来上がっているらしい。
私の画像の候補は
「アイドルシンガーになることへの日常的な憧憬から、時に想起し夢想される恥ずかしい定型的な妄想イメージを、実際に(強引に)実現させてみるとすると、こんなことになりますよプロジェクト」の熊何とかという人のスチール写真一枚しかない。
とすると、私とは実はこの人なのだろうか。

Q. 自分の名前が登録されないか不安だ  SPYSEEは、ウェブ上で公開された情報を整理して表示するサービスであり、  非公開の情報を発見することや、新たな情報を書き加えることはいたしません。  したがいまして、ウェブで検索できない情報が公開されることはありませんので、ご安心ください。  (タグに関する情報はこの限りではありません。詳しくは利用規約をご覧ください。)  また、ご本人の希望に反して登録がなされている場合は、削除いたしますのでご連絡ください。  SPYSEEは、セマンティックウェブ技術のひとつの応用例として、人物に関する情報を整理して表示するものであり、  ご本人の意思に沿わない情報を収集し、公開することを目的とするものではありません。 Q. 名前を検索するだけで登録されると聞いた  検索ボックスに名前を入れて検索しただけでは登録処理は行われません。  検索結果ページに表示される「調査・分析を依頼する」というリンクをクリックし、  所定の手続きを行うことで登録が行われます。

素朴な疑問。
調査依頼をする主体に対する言及がないということは、
spysee側が自動的に
(例えば一定数以上の検索に引っかかる人を対象に)
誰でも登録できることを否定している訳ではないのだから、
これはほとんど何も言っていないことに等しいのではないだろうか。

「非公開の情報」
私がwebを初めた当初は、
webが「公」の現実を打開する(だから時に私秘的な)
「非公開」の情報展開の場という風潮があったものだった。
というか、「webに載せること」イコール「社会に対して公開している」という認識は、
ほとんどの個人ユーザにはなかったと思っている。が、
そういう認識はそろそろ改めた方がいいのかもしれない。

webは完全にもう一つの「公の社会」を形成しつつある。
webに載せたものには、(例え有名人でなくても)説明責任が生じるし、
如何様にもパターン認識のターゲットになり得る。
だからもちろん変な伝えられたをすることもあるし、
それを監視する義務も生じる。

ほとんど、
「現実に生まれてきたこと」による社会への応答責任と同じようなものだ。

2009-02-24

バグだと思って丸二日虱潰しにあらゆるプロセスを点検したのだが、
何らバグらしいものはない。
グラフィカルに表示させてロボットの動きをまじまじと見ていたところ、

『eureka!!!』

アルキメデスの瞬間は至福だった。

バグだと思っていたそれが、
実は自然の摂理であることがわかったときの類いのそれ。

直進時における進行方向のランドマーク検出は、ランドマークの方向へと収斂させる効果を持つ。
一方、進行方向と逆向きにおける検出は、現在の進行方向を拡散させる効果を持つ。
これらの効果は、検出距離が遠い程顕著となる。

共同宣言みたいなもの

中川さんはナイスだった。
映像を見る前から想像するだけで笑いが止まらず、
果たしてその映像は期待以上のパフォーマンスであった。
引越おばさん以来の瞬間風速。
その前が横山弁護士あたりで。
その前は何であったろう。
本当のところ引越おばさんと中川事件の間にも何かあったような気はしている。
なぜなら
「引越おばさん以来の瞬間風速」
という表現を近年用いたような感触がこの辺に。

これほどまでに私を愉快にさせてくれた、
歴史的な傑作であろう、その記者会見映像に対して、

youtubeでは陰謀だとか右がどうの左がどうの罵詈雑言が飛び交っているし、
テレビをつければ、
国の威厳がどうの、日本人として恥ずかしいだの、
不況で職を失っている人がどんな目で見てるだの、

そんなことをより一層眉間に皺を寄せて語っているキャスターだったり街の人だったり、

おう、
私はなんとつまらない世界にいることだろう!!

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最近、
a. 論文と研究で2月いっぱいはものすごく忙しい。
b. 1月に行った下呂温泉に感動しているので、隙があればまた行きたい。
c. ゆらゆら帝国の『空洞』をついに購入。
d. 既に50回くらい聴いたためさすがに飽きてきた。
e. この歳になって、右足の甲のみでリフティングを続ける技術を身に付けた。
f. 研究の合間は暇さえあればリフティングをしている。
g. 衣の成長著し。
h. 職場に行くときに衣に号泣されるので嬉しいがつらくもある。
i. 自転車を購入。
j. 身体が冷えなくなった。
k. 大竹伸朗の全景のカタログを購入。
l. iPhoneの購入を検討中。
m. 中川大臣辞意を表明。

あけましておめでとうございますも何ももう1月も半ばだね。

実家に帰り地元の友達と会い
めでたい話とそうでもない話を聞くこととなる。
それはつまりは例えば結婚と別れといった類いのもので
そして実際のところ
「例えば」という枕を添える妥当性についてはハッキリとNOが叫ばれてしかるべき、
そのような事態のものだから、
平たく言えば、
「結婚と別れの報を受けた」ということで間違いない。
その別れにより、
印象的なその人とはもう二度と会えない、
という思いが次第に強くなってきて、
そうした事態というのは、
結局私の関与しない(出来ない)ところで突然生じているわけで、
どうやら人生というのはますます夢のようだね。


数日前に母方の祖母が息を引き取る。
父方の両親は私が生まれてきたときには既に他界していたため、
母方の祖父に引き続き、20年ぶり2度目の葬式に出るため雪の積る秋田へと向う。
母の涙を見ていて、あぁこれで母は、人生における最も大きな仕事を終えたのだなと思う。
僕はしっかりとやり遂げられるだろうか。

「形式の効用」について考えながら、
形式的なことばかりを淡々とこなして葬式は終わった。
今の世の中には意味(効率性という観点からの)ばかりが溢れている一方で、
形式はどんどん姿を消しているような気がする。
コミュニティーのサイズが核家族、個人レベルにまで縮小してしまっている現代では、
儀式なんてたいそうなものに手を出せないのも無理なし、と思う。
形式を手放して、これで「自由を手に入れた!!」と思ったこともあったのだが、
実際には、過剰なる自意識ばかりを抱えてしまったようだ。

今、また、エコ原理主義的社会風潮が、
エネルギーを消費する類いの形式を飲み込もうとしている。
注意されたし。

2008を振り返る例のアレ

2008年もほとんどCD買わず本読まず特定のテレビも見ず。
年末恒例のアレをやろう。
2008年を振り返るやつ。
今までやったことないだけに。
風邪長かったのが空けたし。

1位 ポリリズム@パフューム
2位 変なストリートミュージシャン@ジャルジャル
3位 わたしたちに許された特別な時間の終わり@岡田利樹
4位 学校へ行ってきます@ゆらゆら帝国
5位 スーツをプレゼント@千鳥

ポリリズムの最初のサビが終わった後の、それまでの流れが突如反転するような、あの極めて機械の機械的なる部分のうちの最良の部分を照射する直列的かつ多層的な反復を初めて耳にしたときは、岐阜も、未だ夜が明けたばかりの頃合いだったのであり、当然そんな時間に、私が完全に起き切っているということはあり得ないのだが、それはそれとして、未だに何となくあの初聴時の強烈な感覚は、この辺(この辺です)に少し残っている。極端に直列的なのに、その極端に直列的なもの同士が、どうにも折り合いをとらないものだから、その結果極端に多層的なものになってしまう。映像で見ると、あのパートに入ると、3人組はそれまで続けていた「歌う振り」さえも止めて、マイクを口から放し踊りだけに専念する、人間を「振る舞う」ことさえ放棄する、あの瞬間が私にはどうしても刹那的なのだ。人間が機械に対する抵抗を音楽的に失う刹那は、同時に機械が「人間なるもの」に対する壁を乗り越えられない事実を否応なくつきつけられる、吉田戦車的な刹那と接続するのであり、その接続の回路を提供しうるという点において私はポリリズムを推薦します。「変なストリートミュージシャン」の異質さは一体何だろう。今年一年私は確実にジャルジャルの追っかけ状態であったため、ほぼ全てのネタを見てきたので、何故にM1の準決勝とか敗者復活戦であんな(ジャルジャルにしては)つまらなくてわかりやすいコントを漫才にしたのか私には疑問なのであり、来年は、「変なストリートミュージシャン」を漫才にして攻めに転じることを希望している。『わたしたちに許された特別な時間の終わり』の文章が好きだ。読点を打たずに、くどくどと細部を述べながらも、それでいてさらさらと流れていく、あの文の連なりの感じが好きだ。ゆら帝の「学校へ行ってきます」はmyspaceで幸運にも聴くことができる。ゆら帝だけが、ここ数年の歩みの中で着実に誰も見ようとしたことのない世界へと進んでいるような気がする。(例えば、コーネリアス等は誰も見たことのない世界へ向かっているかもしれないが、それなりの数の人が現に「見ようとしている」類いの世界であるような気がする。だから予想を裏切らない。)ゲーム的なフラットな世界に立脚しながらも、ゲームの向こう側にあるような曖昧模糊とした音を拾い上げてくる。ポップソングにとっての新種のリアリティーが立ち上がっている。ちなみに、私は最近リアリティーというものの本質は「既視感」にあると思っていて、それでその「既視感」にも二種類があって、「見ようとしている」類いの世界が予想通り見えた場合の既視感は一次的なリアリティーで、それは時に涙を誘いながらも一次的なものに留まっている。それとは全く異質なリアリティーとして、全く見ようともしていなかったにもかかわらず、あたかもそれをずっと待っていたかのような既にそこにあったかのような錯覚に陥らせる力のある類いの既視感があると思うのだ。うぅ、眠い。千鳥については省略せざるを得ない。最後に加えるならば、今年のm1は最低だった。いい加減、怪しげな技術論を語る審査員達にうんざりしているのもある。

2008-12-05

思うところがあり今日は久方ぶりにストレスがたまった、そんな一日に限って日記を書き出す流れは昔はよくあったものだった。恩師に久方ぶりに自分の研究を見てもらえたのはよかったけれど。

先日の免許更新の講習の場で、

--
それは12/2の出来事で、
私の誕生日は文化の日だから、
ギリギリの更新で、
3日くらい前に気付いたのは奇跡的で、
これは神の仕業か、
とぐらいに、
大げさに感動していたのだが、
--

盛んに講師の方が「みなさんは初回ですから」を繰り返すもので、
それで周りは免許取れ立ての幼い感じの人ばかりで、
そういえばなぜに私は無事故二違反なのに、
毎回初心者仕様の二時間もの講習を受けねばならぬのか、
と思い、
休憩時間に
「私、免許とって10年経っているはずなのですが」
と質問すると、
あなたの免許は2007年12月7日が起算日になっているということで、
そういえば、京都時代、免許がなくなって再発行してもらったことがあったので、
そのせいかと一瞬考えたが、
いやいやいやそれは2005年くらいの話だと思い、
時期が合わないじゃないのと詰め寄ったが、
色々やりとりしているうちに
前回の更新期間(2007/10/3~12/3)に講習を受けなかったために(大垣)、
新規になっているという事実を徐々に受け入れ始めた。
全く記憶にない。

「ワタシは何事もギリギリで間に合わせる要領のいい人種である」
その信頼性は揺らぎ始めている。

「ギリギリで始動して、そして大体間に合わない」
スズキという人間が私の知り合いにはいる。

2008-11-29

韓国(学会)・大阪(ロボットフェア出展)を巡る怒濤の二週間終わる。
今回の旅で「韓国の食と私の味覚の相性の良さについて」強い問題意識を抱えることとなった。
残る年内の大きなイベントは二つ。
仕事上のメールのやりとりが多くてしんどい。言葉の選び方とか。
研究がしたい。
久しぶりに机を整理していたら免許証更新の紙を発見。12/3まで。危なかった。残るチャンスは一日のみ。平日抜け出して講習を受けに行かなくてはならない。
自動車税このまま払わねば差し押さえるとの通知。延滞金2100円を上乗せして、支払い完了。前年と同じパターン。
引っ越しの準備もやらないとね。


動きが生命をつくる

『運動のスタイルの生成は、また「意味の獲得」でもある。三角形や四角形だということが「分かる」のは、その触り方に依存しているし、速い明滅や遅い明滅の知覚/分別も、そのまわりでの運動の仕方に依存して決まっていることがこの実験から分かる。
 これは、運動のスタイルがものの「分かり方」に関与しうると解釈できる。運動のスタイルがどうなっているかは、内部のダイナミクスから、分かりうるものである。したがって、環境に応じてどのような運動のスタイルを生成しているかが、その環境の意味となる。
 (中略)
 アフォーダンスを強い意味でとると、エージェント(行為体)の中には何もなくて、情報は外側にいろいろと埋まっている。それを探索して見つけ出すことが知覚であると考えているようだ。その結果、環境におかれるとその環境からアフォード(与えること)されて、行為が生成されるようになる。そのアフォードのされようが意味というわけだ。』(p112, 113)

『ここで時間進行はふたたび"the way things go"的である。時間の順序はアプリオリに決まっていない。自然現象はすべて決定論的な力学系/微分方程式で基本的にはシミュレートできるが、その中間層記述である心的時間発展は、物理神経力学系を時間順序に関して裏切れる。心的力学系をどのように構築したらいいだろうか。」(p.222)

無事ならば!!!もう一度妻を愛そう。(西田談)

本日早朝、古雑誌の固まりを規定の収集場所にて処分させて頂く。
約1t分くらいあっただろうか。
京都から大垣への引っ越しで捨てるつもりで大量にパッケージしたものであり、
捨てれなかったものであり、
なぜかアリのトラックに乗って大垣のベランダへと引き継がれ、
それからもなぜか捨てられることなく岐阜への引っ越しの日を迎え、
なぜかアリのトラックに乗って岐阜のベランダへと引き継がれ、
そうしてまた幾分かの歳月が流れ、
来月に引っ越しをするという段となって、

ついに私は立ち上がったのだ。 意を決して。

紐は幾年の風雨に曝され、
持ち上げるとほろほろと砕け散るものだから、
新しい紐でくくり直した。

京都時代に使っていたアイデアノートなんかがいろいろあった。
京都時代によく買っていた音楽の雑誌とかパソコンの雑誌なんかがたくさんあった。
京都時代に単位を取るのに苦戦していた中国語の教科書なんかもあった。

それらは今日捨てられた。
このような形で、過去とのつながりが断ち切られていく。

はぁ。

切羽詰まって疲労困憊なときは少しの空いた時間を見つけてはyoutubeで同じものを繰り返し見るの法則性について議論する前に実際に何を見ているのかについての記録。



病的なまでに何回も再生してしまっていることについて。
「そんな反発?するような目でわしのことを見て。見るようになってから。
「ハンニャをとれいうんじゃ。」
横綱相撲をとっとる場合じゃねぇぞ。
「イコリたってんじゃねぇぞ」
大吾のエンジンにのる言葉の選択のその特異性と、
そもそもの、エンジンとしての声質の特異性について。
またはそれらの不可分な必然的結合について。




発想的には既視感ありありベタベタであっても、
センスの良い人たちが
それなりの完成度でもって演出すれば
こんなに強い衝撃が走るものだということについて。

<子ども>のための哲学

『死ぬことによって失われるものと、生まれることによって生じるものとは、本質的にちがうような気がするのだ。
 そしてぼくは、死を生の対立概念と考えるのは実はまちがいで、ほんとうは生まれてこないということこそが生の対立概念なのではないか、と思っている。』(p123)

『そうしたさまざまな要求がうまくつりあう点のようなものがあるはずだろう。まわりの人に迷惑をかけないし、むしろ好感を持たれながらも、自分もそれほど無理せずにすむ、というような点である。これがつまり冒頭で出した問題の答え、つまり「善い」の意味だ。でもこのつりあいをうまく保つというのが、けっこう難しいんだ。
 このつりあいは、ふつうの人にとってはごく自然に実現できている単なるつまらない事実なんだけど、それでも、それが実現できない場合を考えると、やはり実現すべき規範であり、課題なのだ。すでに実現されている平々凡々たる現実こそが、平々凡々たる現実であるからこそ、最も困難な、最も微妙な課題であり、規範ですらある、というこの認識は、いろいろな場合にとても重要な意味をもつ、とぼくは思う。
 個人についてではなく、社会についても、同じようなことがいえるだろう。世の中をよくするよりもそのまま維持することのほうが、むしろ困難で微妙な課題だろう。善悪についても、そうだろう。極端な善人もいれば極端な悪人もいて、その中間にいろんな人がいる。そして、それこそがよい状態なのだ。それは与えられた現実であると同時に実現すべき課題なのだ。』(p162)

--
小学生の頃までよく死について考えていたこと。
「"ある"の反対は"ない"じゃなくて、
 "ない"さえも"ない"状態ということ。」
バスの中で隣に座ったキリユキに力説していたら、前の高校生にうるさいと言われた。
(p123)のところを読んで、ふとそんなことを思い出す。

(p162)は、最近気になっている社会学的な「端的な事実」と強い関係があるように思える。そして、この「善さ」は、複雑系の構成論的アプローチにおける、適度に外部から流入がありつつ、緩い自己を持続的に構成可能な、「善い」システム観ともつながる。





2008-10-21

ニシオカが春に置いていったと思われるCDがなぜかマコのパソコンに入っていて、それで我が家の最近の目覚ましの音楽となっているのだが、そこで流れていたパフュームの音楽が気になって毎朝毎朝耳を澄まして聞きいってしまうのだけれど、それで今日YouTubeでポリリズムのダンスを見ていたら、とあるところで涙が出てしまったのだ。テクノに深く嵌まったのは、大学時代の一、二年ぐらいで、それからすぐ離れたから、そんなにテクノ馬鹿といった人種でもないのだけれど、テクノ的な場所から漏れてくれる哀愁に涙を流してしまうことはよくあって、あれは何なんだろうと考えていたのだけれど、今日ぐぐっときてしまったところを分析したところ、一種の共通項の様なものを発見したような気になっていて、それは多分、人間側の出力(声とか踊りとか)が機械的な文法のアトラクターに落ちていって溶け込んでいってしまってそれでもう帰ってこれなくなる感じを過剰にぐわっ〜と出されると、どうも堪えられなくなるようだ。三曲ぐらいしか聞いていない私の私見によれば、パフュームの音楽の素晴らしいところは、感情的なフィルタが通される前のニュートラルな声が出力されているところで、つまりは楽器的ということで、それで機械的なものとの親和性が強くなるということだけれど、そういう意味で、私にとってperfumeは、corneliusとかbuffalo daughterの系譜に位置付けられる。それにしてもポリリズムの中盤のポリリズム-リズム-ズッズッズッズッの繰り返しのところは白眉だなぁ。

フランスに行く飛行機の中で工藤静香の「無言色っぽい」を迂闊にも聞いてしまったのだが、あの当時の音楽を聴いていると、既に存在するシンセのシーケンスの上の音符を声が律儀に埋めていく感じで、完全に声が機械の奴隷と仮している。カラオケをものすごくテンポよく上手に歌い切った時の安い感じが拭えない。溶解していない。機械はあくまで機械のまま。しかしあのバブルの頃のリアリティーは、それはそれで、変なパワーがあって、どこか惹き付けられてしまうことは否めない。世の中全てがKARAOKE風な。

--
「人間の出力が機械の文法の中に溶解していく時に発生するあの感じ」

アンダーワールドのライブとかでも感じたあれなんだ。
過剰な繰り返しに、機械の出力自体の感情が反転された感じで放出されるあの感じだ。

そうか。
私は何か考察を180度取り違えていないか。
むしろ、機械が人間性を帯びてしまうということが問題なのかもしれない。

同じことじゃないの。うん。

それは吉田戦車の漫画で時々描かれるロボット達の、
乏しい表情の中にある種の感情が生起してくるときの、
あの感覚に近い。

2008-10-05

バッファロー吾郎が優勝した。(ちょっと出来レースの感はあったが、)決勝は、二つの確立された伝統芸能のどちらが好きかという好みの問題というか立場の問題というか、そういう解釈で良いんじゃないだろうか(バナナマンの今回のネタなんて何度も見てるしな)、とにかく、久しぶりにこういう大会で個人的に推している人たちが優勝したんで、うれしかった。バッファローみたいのを、究極のサンプリングコントと言うんだろうか。音楽とか、文学とか、それに先駆けてのコンテンポラリーアートとかでは、とっくに浸透している(ちょっと廃れつつもある)技法(サブカルデータベースからのネタの切り貼り)が、そういえばお笑いの世界ではおまり受け入れられていなかったのかもしれない。コントとか漫才とかは、シチュエーション(環境)が同じでも、語りの形式(エクリチュール)によって奥行きは無限に広がっていくから、つまりは、スタティックに変質硬化してしまう前の、人間様の力がかろうじて生き残っている数少ないメディアだったのかもしれないが、最近のケンコバの活躍ぶりと今回のバッファローの優勝はお笑いにおける何かの変化の予兆なのかもしれない。内田樹氏がかつての日記で、お笑いを、場を支配する技術的な観点から語ってて、それで、それは多分ネガティブな意味だったんだけど(空気を読めないやつが淘汰されていく、いじめっ子が勝利する云々)、お笑いって、そんなロンブーのホストみたいな人が司会をしているバラエティー番組みたいなもんばかりじゃないよ。「場を支配する技術」というのは、確かに両義的な方向の気分を想起させるけれど、"狙って"面白い場を創出することができる人が、必ずしも、それによって人間をコントロールすることに(そして時に人を蹴落とす)第一義的な快感を得ているわけではない。笑いの「場」というか、そういう空気みたいな、カオス的なダイナミクスのどっちつかずの妙、そのものに取り憑かれている、そういう芸人さんだっていないはずがないでしょう。それは、武道に内在している妙とそう変わらないんじゃないだろうか。お笑いを「あるある」的批判で、一刀両断する知識人がたくさんいて、私はその言説に接する度に、「まぁ、何と乱暴な!!」なんて思ったりするんだが、そういう方には、バッファローの主催するダイナマイト関西なんかをご覧になって頂きたい。(が、しかし、あれって関西ローカルだから、私も、最近見てない。)

2008-09-23

http://jp.youtube.com/watch?v=Lm2n1MTVT5c

ニースで体調の回復を待ちながら、
このコントを何回も再生している。面白い。
ジャルジャルにしては珍しくオチをつけていて最後も秀逸。

定義され得ない顔、

「形式のみを析出する演出」

「形式のみを析出する演出」

「形式のみを析出する演出」

2008-09-17

怒濤の九月の前半戦本日終わる。
一週間の間に英語二本提出して、その合間に神戸に発表に行く。
毎週英語の論文を書く様なことになれば、
私の英語力もかなり上達すると思われるが、
実際には、次書くときにはまた忘れていて
ダメだ〜の循環となるから、
これを克服するためにももっと英語の論文を読まないといけなのだと思う。
一段落したら次の段階の研究の構想を練りたいが、
来週頭からフランスに行くためにその準備をしなければならない。
大きな会議は論文提出と発表の間に半年も時間があり、
わざわざフランスまで行って
2月の頃の成果を発表するというのはあまり気乗りのするものでもない。
何だか大阪の知事にあの人が就任してから、
あの人がますます嫌いになってしようがない。
先日ウェブで、
その知事がどこかの図書館を隠し撮りしていたというニュースを目にしたのだが、
それは最近目にしたニュースの中でもかなりひどい部類に入ると思ったのだけれど、
その後、関連する記事も見ていないことから、
どうやら大したバッシングも無く今日まで来ているのか知らん。
古館氏の、
一瞬の弛緩も許されぬ、
あの無駄に寄せられた眉間の皺は、
#それは弛まぬ鍛錬の賜物であるとして賞賛されるべきものである、
#といったアクロバットな視点をここに確保することも可能だろうか。
さて、
この事件に際して、どのような反応を見せたのだろう。

賞賛されるべき一派というものが存在するとして、
その意見を採用するためには、
まずはこの事件に対する彼の反応を注意深く、
例えば高精度カメラのコマ数で眉間の皺を細かく観察し、
その寄りのダイナミクスが何を考え、何に共感し、何に憎悪を抱いているのか、
または、何も考えていないのか、とか、
それ相応のパターン認識が必要となるやも知れない。

いやだって、そんな(古館氏の)話はどうでも良いじゃないか。
その隠し撮りの話は、
現在の世間の通念的にはOKになっている、ということなんでしょーか。
それは何だかますます耐えられない!!!

このことに対して文句を言ったら、
あの明晰な知事は、
「何もやましいことがなければ隠し撮りされたって構わないじゃないか」
とでも言ってくるのかもしれない。
何だか論理学の命題の真偽を発話するような物言いで。
実際、
現実の事象を論理学のように二元的な関係性に置き換えるにやぶさかでない者たちが
はっきりとものをいい、
誤りを受け入れる余地など何も無く、
ばっさばっさ人を組織を切って、
それで、
論理学で扱えない状況に追い込まれたら涙を流すとか、、
あー!!!
そういう人っているよね!!!

(論理学は面白いが)、

何かやましいことをする余地のある平凡な日常。
それは論理学の対象外かもしれないけれど、
そんなファジーで偶有的な生を肯定する政党のようなものを誰か立ち上げたりしたら、
私は参加はしませんが応援しますよ。

#「民間だったら当たり前」の言葉を聞くたびに何だかだまされた様な気がして嫌な気分になる。


最近の衣が良く寝る曲メモ。

電気グルーブ、スペースインベーダ
rovo、pyramid
コーネリアス、fantazma前半
boredoms、vision creation newsun
beck、hotwax
ゆらゆら帝国、はらぺこのがきの歌、時間
little tempo、kedaco is bornの三曲目
ooioo、UMA
fishmans, baby blue

それと電気グルーブのvoxxxの最後の曲の
hello!! Mr, Monkey, マーージク, おーーーけーーすとら、ヘイ!!!!!
の最後の方で、曲の合間に、瀧が侍の様な声で、
「何だ?!!!!、ナ〜ニヲ***シタンダ??? しゅこ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
の台詞が三回ぐらい入る時に、
衣が異常に興奮するという事実はここに特筆するべき事項。

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