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シンガポール航空の飛行機の中では誰もが毛布に身を包めそれを震わせる。そしてアイホンをUSB経由で充電することができる (even in an economic seat)

シンガポールが
アイホンの衝撃の実用デビューを飾る舞台となった国として
長く私の心に残り続けるであろうことは
もはや疑うべくも無い事実であることを差し引いても
仮に差し引かなくても
いや、
差し引かれないことに対するきまりの悪さを
見て
見ぬ
振り
をするという
アクロバットな跳躍を試みようが試みまいが、
結果(in the end)、結果(the result)は同じなのだからね。

私は
実のところ
ここのところ
研究所では屋内の位置情報を扱う分野にいながらして
だがしかし
全く実用的(アプリケーション)イメージがわかずに、
仕様がないから、
社会的ストーリーからは幾分距離を置きながら、
地味に移動ロボットの情報学的研究をすすめていたのではあるが、

キャッシュで保存したシンガポールの地図の上に、
自分の位置と方向がリアルタイムでマーキングされていく様を初めて体感した時の感じは、

#もちろんそれは最もベイシックな使い方で
#応用次第で色々な使い方へと広がり得る。

その感じ自体がユニークであること自体は特に語るところでもないにしても、
それを一段普遍化したレベルの感覚をとってみても、
(新しくて便利な技術文明に接触した際の反応的な)
さしあたり、
経験した過去の感覚のどれにもカテゴライズされていない。

幼少の頃は何かもが新しいがゆえに
その新しさについて差異化する契機が生じにくい、という事情。
インターネット世界的なダイナミクスとしての「新しさ」の衝撃は、
必ずしも「直接的」ではない、という事情。
首にぶら下げて歩くという「携帯形態」が
カーナビとは異なる一種の身体的全能性を与えているという事情。

カーナビ的なものは
脳の一種の外化で人間をどんどんバカにしていくというような趣旨のことを
私はこれまで好んで仕事でも口にしていたのだが、
どうやら事情がそんなに単純でないということもわかってきた。
フッサールの現象論的的記述を引用して一部のロボット研究者が対象としている、
道具と認識主体が力学的にリンクしていくような世界観は、
(道具が一時的に身体化するということです)
実は私が今回経験したような事象にも適用できるのではないかという、
例えばそういうことで、
つまりは、
そうしたデバイスに対する脳の振る舞い方は、
「必要な時に必要な情報をデータベースより参照する」という、
静的で刹那的なプアな知能モデルでは片付けられない、
もっと能動的で微妙で豊かな問題が含意されているかもしれない、
そして、
それだから、
そろそろ30になる私は、
もう少し頭を柔らかくしないといけないと考えます。
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