2010-08-05
暑い。とにかく暑い。風のよく通る窓の開け方の組み合わせを考える。
こどもたちはエアコンがついていない状況(というか方針)について、
世間一般との不公平感を訴えるまでには成長が至っていないため、
今も文句をいわずに(すやすやとは言えずも)眠っている。
寝室には扇風機を二台配置している。
それらの振動の具合といったら、特に引き込みの作用が働くというわけでもなく、
お互いが独立に決まったテンポを維持している。
三ヶ月くらい前から、とにかく、ごこうに癒され続けている。
癒しなんてものは、自分には無縁の作用だと若い頃は常々思っていたが、
ごこうが放つそのとびきりに脱力の仕草諸々に対して、
世間で手垢にまみれた言葉として流通している「癒し」を当て嵌めないで、
はて、いかなる言葉が適当だろうかと熟考するも、
いやまて、熟考こそが癒しの最大の敵ではないか、と、
素直に癒しに身を委ねることにする。
いちわのその頃は、癒しというよりは、
「いちわはいちわ」としか言いようの無い類いの、
それはそれで強烈な雰囲気だったのだけれど。
小学校時代からの旧友が、
終身雇用制を日本から排除すべき悪習だとして、
20歳ぐらいから散々私にプチ演説をかまし続けた、その効果もあってか、
私も永らくその意見に賛同していた。
25歳くらいの頃、私が別の大学院を受験する頃、
もう就職先が決まっている友達のI君にその事を言ったら、
普段控えめな彼が「えー、終身雇用制は素晴らしいですよ」と
極めて自信満々に返してきたのが印象的だったのだけれど、
最近、次の職場を考えている中で、そのときのことを思い出した。
何と言うか、そのとき、私は完全に圧されてしまった感があった。
私が最近感じているのは、
発展とか競争の上で戯れる人たちが、
そこから離脱している人に何かしら差別意識あるいは優越感を持つのは大きなお世話だということで、
不完全な社会の枠組みの中では、どちらの生き方にもそれなりに強い根拠があるだろうし、
どちらか一方だけでは、(おそらくは)社会は安定性を維持できない。
そういった土俵以前の問題として、
個人としての生き方を考えるときに、
「社会システムの健全性についての配慮が欠けている」なんて嫌みを言われたら、
その選択に命をかけている人にとっては(もちろんかけてない人も)、
立腹の一つや二つやらでは収まりのつかない嫌な気分でいっぱいになるだろう。
それは、おそらくは、個人が社会の一つの駒のように扱われてしまっている、
それが立脚している科学的とされる社会のとらえ方に対して向けられている。
個々人のシステムの中には既に広大な奥行きが存在するわけだから、
彼らの選択には、(たとえそれを十分に言語化できなかったとしても)、
そのシステムの中で強い妥当性があるはずで、
その「一種の自然」を尊重しましょう。
と最近考えています。
デザイナーと、その内部の個々人の選択の問題は切り分けて考えなければならない。
こどもを持つようになると、
虐待のニュースを以前のように流し見することができなくなってしまい、
じぶんのこどもと重ねてひどく感情が揺さぶられるようになる。
彼女も、彼女のシステムの中の、「一種の自然」の結果、
あのような恐ろしい現実を野放しにしてしまった。
とても信じたくはないが、真実である。
こうして強く揺さぶられた感情を鎮めるための特効の「語り」のようなものを探している。
たとえ、彼女に強い憤りを覚えたとしても、
今後、自責の念に駆られて誰よりも苦しまなくてはならないのが彼女自身かもしれないことを思えば、
それだって空しくなってしまう。
私は、一応、「天国」とか「生まれ変わる」とか、そういう言葉に強いリアリティーを覚える。
実在するとかしないとか、そういうレベルの話ではなくて、
なんというか、「こどもたちは今も生き続けている」と唱えることに何かが宿るような気がして。
その何か、ってのも実在するとかしないとか、そういうレベルの話ではなくて。
こうした感覚を表現するのに、言語とか論理とかは向いていないのだとつくづく。
98年のフジロックの映像を見ていたら、
18歳の幼き私が、倒れている人を起こしています。
チバ氏に言われるがままに。
http://www.youtube.com/watch?v=tWHNNLRVZDM
こどもたちはエアコンがついていない状況(というか方針)について、
世間一般との不公平感を訴えるまでには成長が至っていないため、
今も文句をいわずに(すやすやとは言えずも)眠っている。
寝室には扇風機を二台配置している。
それらの振動の具合といったら、特に引き込みの作用が働くというわけでもなく、
お互いが独立に決まったテンポを維持している。
三ヶ月くらい前から、とにかく、ごこうに癒され続けている。
癒しなんてものは、自分には無縁の作用だと若い頃は常々思っていたが、
ごこうが放つそのとびきりに脱力の仕草諸々に対して、
世間で手垢にまみれた言葉として流通している「癒し」を当て嵌めないで、
はて、いかなる言葉が適当だろうかと熟考するも、
いやまて、熟考こそが癒しの最大の敵ではないか、と、
素直に癒しに身を委ねることにする。
いちわのその頃は、癒しというよりは、
「いちわはいちわ」としか言いようの無い類いの、
それはそれで強烈な雰囲気だったのだけれど。
小学校時代からの旧友が、
終身雇用制を日本から排除すべき悪習だとして、
20歳ぐらいから散々私にプチ演説をかまし続けた、その効果もあってか、
私も永らくその意見に賛同していた。
25歳くらいの頃、私が別の大学院を受験する頃、
もう就職先が決まっている友達のI君にその事を言ったら、
普段控えめな彼が「えー、終身雇用制は素晴らしいですよ」と
極めて自信満々に返してきたのが印象的だったのだけれど、
最近、次の職場を考えている中で、そのときのことを思い出した。
何と言うか、そのとき、私は完全に圧されてしまった感があった。
私が最近感じているのは、
発展とか競争の上で戯れる人たちが、
そこから離脱している人に何かしら差別意識あるいは優越感を持つのは大きなお世話だということで、
不完全な社会の枠組みの中では、どちらの生き方にもそれなりに強い根拠があるだろうし、
どちらか一方だけでは、(おそらくは)社会は安定性を維持できない。
そういった土俵以前の問題として、
個人としての生き方を考えるときに、
「社会システムの健全性についての配慮が欠けている」なんて嫌みを言われたら、
その選択に命をかけている人にとっては(もちろんかけてない人も)、
立腹の一つや二つやらでは収まりのつかない嫌な気分でいっぱいになるだろう。
それは、おそらくは、個人が社会の一つの駒のように扱われてしまっている、
それが立脚している科学的とされる社会のとらえ方に対して向けられている。
個々人のシステムの中には既に広大な奥行きが存在するわけだから、
彼らの選択には、(たとえそれを十分に言語化できなかったとしても)、
そのシステムの中で強い妥当性があるはずで、
その「一種の自然」を尊重しましょう。
と最近考えています。
デザイナーと、その内部の個々人の選択の問題は切り分けて考えなければならない。
こどもを持つようになると、
虐待のニュースを以前のように流し見することができなくなってしまい、
じぶんのこどもと重ねてひどく感情が揺さぶられるようになる。
彼女も、彼女のシステムの中の、「一種の自然」の結果、
あのような恐ろしい現実を野放しにしてしまった。
とても信じたくはないが、真実である。
こうして強く揺さぶられた感情を鎮めるための特効の「語り」のようなものを探している。
たとえ、彼女に強い憤りを覚えたとしても、
今後、自責の念に駆られて誰よりも苦しまなくてはならないのが彼女自身かもしれないことを思えば、
それだって空しくなってしまう。
私は、一応、「天国」とか「生まれ変わる」とか、そういう言葉に強いリアリティーを覚える。
実在するとかしないとか、そういうレベルの話ではなくて、
なんというか、「こどもたちは今も生き続けている」と唱えることに何かが宿るような気がして。
その何か、ってのも実在するとかしないとか、そういうレベルの話ではなくて。
こうした感覚を表現するのに、言語とか論理とかは向いていないのだとつくづく。
98年のフジロックの映像を見ていたら、
18歳の幼き私が、倒れている人を起こしています。
チバ氏に言われるがままに。
http://www.youtube.com/watch?v=tWHNNLRVZDM
2010-08-05 00:03
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