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別にこれは皮肉ではない。

昨日無事博士合格の報を受ける。

前打ち合わせ1(9月)、前打ち合わせ2(11月)、判定会(11月)、教室説明会(11月)、読み合わせ1(12月)、読み合わせ2(1月)、公聴会(1月)

この間提出物(修正書類含)多数。

並行して、成果報告会の運営、セミナーで発表、国内会議、出産など。
国際会議がなかっただけ、ましだったのかも。

ラーメンだけをモチベーションにして4回の乗り換えを経て高田馬場に向かい、
合計8回の乗り換えを経て各務原へと帰路につく。その繰り返し。
正直、こんなに色々な行程を踏む必要があるとは思っていなかった。
論文だって、好きに書いて誰もチェックせずにそれで終わりだと思っていた。
大学によっては、そういったケースがあることも話には聞いている。
でもそうではなかった。

そういった、一つ一つ扉を開いていく形式が、神話的であることについて。

儀式の儀式性というのは、冗長性にこそあるのだと思う。
冗長性こそが儀式性を高める機能なのだと思う。

何度もご足労頂いた先生方には感謝しています。

21か22のころ、大学院という概念に触れた。
大学院に入るか入る前くらいに、修士と博士の違いを知った。
ハカセというのは、科学者に対する親しみを込めた相性だと思っていた。
ドクターというのは、ずっと医者のことだと思っていた。
それらは、部分的には正しいが、やはり、部分的でしかあり得ない。

こんなことだから、ドクターを目指して戦略的に研究生活をすすめる、などということはあり得なかった。
巡り巡ってこういう境遇に至った、その巡り合わせの妙に感謝しています。

などと書いているうちに、
これは実は実にめでたいことなのではないか、という気がしてきた。
それは、繰り返すが、博士というものが究極の形式である故に。

『肩書きの裏にあるコンテンツを度外視して、その肩書きの威光に没入できるが故に』

別にこれは皮肉ではない。
一昔前の自分であったらこれは皮肉であったのかもしれないが。
最近、こうした言葉を皮肉として感じるタイプの人(かつての自分)と、反りの合わない状況が続いている。

情報系であろうが、機械系であろうが、脳科学であろうが、遺伝子工学であろうが、文化人類学のフィールドワークであろうが、美術史であろうが、メディアアートであろうが、数学であろうが、博士と呼ばれる同一の尺度があてがわれる。その極めて優れた抽象性と普遍性から析出してくる『超意味』とでもいうようなものがコミュニケーション幻想に栄養を供給し続けているという事実に。

最近東浩紀氏のtwitterをチェックしていて、コミュニケーションという概念とコンテンツという概念が対立的に扱われていることを知った。う〜ん、なるほど。その斬新な視点のもたらす差異の豊潤さ故に、久しぶりに、停滞していた私の思考回路が駆動をしている。

コンテンツに対するコミュニケーションの優位性について深く考えていくことは、同時に、意味に対する形式の優位性(あるいは階層的深層性)について考えることにつながるのかもしれない、とか。その辺りのことを。
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